人の幸せを願うとき
つい昨日のことだが、いつもけんかをする「新聞の集金おばさん」がやってきた。なんの前触れもなく毎月1万5千円の新聞代を徴収しに来る(なぜそんなに払っているのかは、あまり気にしないで欲しい)。「そんな、毎回突然来られても持ち合わせてないですよ」「え〜、だけどあんた、いっつもおらへんやないか!」「朝はちゃんといますよ!」「そんな朝早く来るのはこっちも大変や!」「前もって連絡してくれれば日曜日の昼でも払いますよ!」「今から銀行にお金おろしにいけばええやないの!」「そんなん勘弁して下さいよ!」……と言う具合になってしまう。
だが、昨日はたまたま数万円を財布に入れていた。不思議と集金は穏やかに済んだ。「どうもありがとう」と、集金おばさんはいつになく腰が低かった。「いいえ、どうもお疲れさまです」とこちらも、いつもとは違った柔らかいトーンで接してしまった。その時ふと、神様が、前日の僕に多めにお金をおろさせていたのではないかと思ってしまった。
なにしろクリスマス・シーズンだから。
そう。クリスマスです。日本のクリスマスは商業主義に塗りつぶされていると嘆く人も多い。パパやママは子供にプレゼントを買って上げなくてはいけないような義務感に駆られるし、若者は恋人と一緒にいなくてはいけないような義務感に駆られるし。日本の若者のクリスマスに対する義務感は相当なもののようです。彼女を高級ホテルのレストランに連れてゆき、高級なプレゼントを渡し、彼女はそれで彼氏に何を捧げるものか……。みんなそれが何か間違っているような気がしながらも、なぜか歯止めがかけられない。
日本よりキリスト教信者が多いアメリカでも、やはり、クリスマスと商業主義を巡る論争がある。クリスマスの贈り物が、日本で言うお歳暮に近い存在になりつつあるのだ。親戚にギフトを送り、取引先のお偉い様にギフトを送り、妻や夫に高価なプレゼントを贈り、子供にも特別な何かを買い与え……。大変な世の中だ。
1人でクリスマスを過ごすのは罪である!みたいな焦燥感に追われている若者も、もちろんいるんだろう。残念なことだ。友達でも、会社の人でも、家族でも、一緒にその時を過ごす人がいればそれだけでも幸せな筈なのに。たとえ1人で過ごしていても、電話をかけて「メリークリスマス」と伝える誰かがいるだけでも幸せなはずなのに。どんなに高価なプレゼントを贈ったところで、本当にその人の幸せを願って、心を込めて「メリークリスマス」と伝えることができない人こそ不幸なのかも知れないのに。
僕はキリスト教信者ではないけど、クリスマスというイベントには敬意を払っています。自分が普段けんかをして当たり前の「新聞集金おばさん」に柔らかく接することができてしまうような季節だからです。Time of giving and caring... そんなクリスマス・パワーの原点に触れることができたので、今年のクリスマスは良いクリスマスだったと思うことにしています。
それではみなさま、メリー・クリスマス!